お疲れ様です!ふじもん@ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでございます!
ボスニアを語るには、やはりあの内戦のことを抜きにしては語ることはできないと思います。ということで今回も内戦についてのレポートです。
覚えていらっしゃる方もいるかと思いますが、サラエボは1984年に開催された冬季五輪の会場でした。サラエボ市内には、今も当時のオリンピックスタジアムと五輪マークのついた塔が建っているのですが・・・。
その裏には、内戦の現実があるんですね。
このスタジアムの裏は、サラエボオリンピックの補助グラウンドだったんですね。しかし紛争中、死者を墓地に運ぶことすらできず、埋葬する場所もなかったため、このグラウンドを墓地とせざるを得なかったそうです。昼間は砲撃の恐れがあるため、埋葬は早朝か日暮れ時に行われました。
今日その墓地に実際に足を運んできましたが、とてつもない数の墓標が並んでいました。本当に心を痛める光景でした・・・。
墓標の没年を見てみると、そのほとんどが1992年か1994年なんですね。この年が、最も戦闘が激しかったのだと推測できます。
とても心に残ったのは、1914年に生まれて1994年に亡くなった方の墓標を見たときです。1914年、つまり第一次世界大戦が始まった年に生まれ、第二次世界大戦を経験し、最後は母国の内戦で亡くなられた・・・。その方は戦争に翻弄された人生だったのかもしれません、何とも言えない感情が心に沸いてきました。
この国には、まだまだたくさんの戦争の傷跡があります。では次回も、旧ユーゴスラビアの内戦をテーマにレポート致します〜。
ふじもん
ボスニアを語るには、やはりあの内戦のことを抜きにしては語ることはできないと思います。ということで今回も内戦についてのレポートです。
覚えていらっしゃる方もいるかと思いますが、サラエボは1984年に開催された冬季五輪の会場でした。サラエボ市内には、今も当時のオリンピックスタジアムと五輪マークのついた塔が建っているのですが・・・。
その裏には、内戦の現実があるんですね。
このスタジアムの裏は、サラエボオリンピックの補助グラウンドだったんですね。しかし紛争中、死者を墓地に運ぶことすらできず、埋葬する場所もなかったため、このグラウンドを墓地とせざるを得なかったそうです。昼間は砲撃の恐れがあるため、埋葬は早朝か日暮れ時に行われました。
今日その墓地に実際に足を運んできましたが、とてつもない数の墓標が並んでいました。本当に心を痛める光景でした・・・。
墓標の没年を見てみると、そのほとんどが1992年か1994年なんですね。この年が、最も戦闘が激しかったのだと推測できます。
とても心に残ったのは、1914年に生まれて1994年に亡くなった方の墓標を見たときです。1914年、つまり第一次世界大戦が始まった年に生まれ、第二次世界大戦を経験し、最後は母国の内戦で亡くなられた・・・。その方は戦争に翻弄された人生だったのかもしれません、何とも言えない感情が心に沸いてきました。
この国には、まだまだたくさんの戦争の傷跡があります。では次回も、旧ユーゴスラビアの内戦をテーマにレポート致します〜。
ふじもん